南浦文之墓
- 種別
- 記念物(史跡)
- 内容
- 史跡
- 員数
- 1
- 寸法
- -
- 製作年
- 元和6年(1620)
- 所在地
- 姶良市加治木町反土1814 安国寺
- 所蔵者
- 安国寺
- 管理者
- 安国寺
- 指定年
- 昭和11年(1936)9月3日
- 解説
- 文之和尚は弘治元年(1555年)日向国飫肥南郷(ひゅうがのくにおびなんごう)の外浦(とのうら)(現宮崎県日南市南郷町)に生まれ、13歳のとき串間の竜源寺に入り、一翁(いちおう)より禅(臨済宗)と儒学を学び、明(中国)の黄友賢(江夏友賢)に五経周易の宋学を学んだ。
のち、第16代太守島津義久、第17代義弘、第18代家久の三代につかえ、文教の振興に尽くす
一方、藩の政策・外交に重要な役割を果した。その間加治木の安国寺、国分の正興寺の住職となり、さらに、鹿児島城下、もと内城の地に家久が大竜寺を建てたとき(慶長十六年(1611))当時の開山和尚となった。
文之和尚は、朱子学にも秀で、桂庵弾師らの四書倭点(和訓)を改良した「文之点」を創始し、「南甫文集」「四書集詿」「周易談義」など漢籍に訓点を施し、日本儒学の発展に貢献した。
著書には、天文十二年(1543)の種子島への鉄砲伝来の様子を一部に記している「南甫文集」「日州平治記」などがある。元和六年(1620)9月30日、隼人の正興寺へ帰路中に加治木で亡くなり、ゆかりの安国寺へ葬られた。66歳であった。墓は昭和十一年(1936)9月3日国指定の記念物(史跡)として指定された。
太平山安國寺(三国名勝図会)
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