島津忠朗墓
- 種別
- 記念物(史跡)
- 内容
- 江戸時代の加治木島津家初代の墓
- 員数
- 1
- 寸法
- H166㎝
- 製作年
- 1675年
- 所在地
- 姶良市加治木町 能仁寺墓地
- 所蔵者
- 加治木島津家
- 管理者
- 加治木島津家
- 指定年
- 昭和44年5月19日
- 解説
島津家久の三男であり、島津義弘の遺命により、その隠居の地であった加治木郷に領地を得て、加治木島津家を創設した。島津忠朗(忠平)は叔母の千鶴に代わり江戸で人質として7年間暮らし、寛永2年(1625)7月15日に加治木へ戻った。寛永8年加治木屋形の西に新邸を築き、翌年に移った。同年10月忠朗は家久から家臣として加治木西衆をもらい、のちに東衆も加え、317家を数えた。忠朗は当主の地位に約40年間あり、延宝4年(1675)2月16日、61歳で死去した。加治木島津家は以後、13代続き現当主義秀氏に至っている。