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姶良市デジタルミュージアム

平松城跡

種別
記念物(史跡) 
内容
江戸時代の屋形跡
員数
寸法
石垣周囲548m、H2.5m,
製作年
江戸時代
所在地
姶良市平松字上星原5633、5636,5638‐2、 重富小学校
所蔵者
姶良市
管理者
姶良市教育委員会
指定年
昭和38年9月
解説

平松城跡は、現在重富小学校敷地となっている。天文23年(1554)、蒲生方の岩剣城が落城したのち、島津義弘が在番することになったが、山頂までの道のりが険しく日常生活には不便であったため山麓に屋形を築いた、これが平松城の始まりという。義弘は慶長10年(1605)から翌年にかけて調査屋形から当屋形へ移り、加治木へ移るまで居館とした。慶長12年(1607)にはここで義弘夫人が亡くなっている。その後は、義弘の娘御屋地様が住んでいる。 江戸時代中頃の元文2年(1737)、藩主島津継豊は弟の忠紀に越前島津家を再興させて16代とした。翌年、帖佐郷の脇元村・平松村・船津村・春花村・触田村を割いて、重富郷とし越前島津家の領地とした。そして、平松城跡は越前島津家の居館となり、維新後の明治4年の廃藩置県まで領主屋形の役割を果たした。また屋形の前面には、家臣団の集落である重富麓の集落が形成された。明治21年(1888)には、平松・触田・脇元の3校が合併し、平松小学校となり当地に開校した。

平松城跡石垣

藩政期の井戸跡

南側石垣

日清日露戦争記念碑

石垣の排水用開口部

データ

姶良町広報記事S38年11月5日付

データ

平松城跡周辺見取図

データ

平松城跡平面図

データ

平松城跡石垣実測図