福崎甚作墓
- 種別
- 記念物(史跡)
- 内容
- ー
- 員数
- 1
- 寸法
- ー
- 製作年
- 慶長5年(1600)没
- 所在地
- 姶良市蒲生町上久徳2276 永秀庵墓地
- 所蔵者
- 個人
- 管理者
- 姶良市教育委員会
- 指定年
- 令和2年1月20日
- 解説
- 福崎甚作は、蒲生地頭であった阿多長寿院盛淳の家臣である蒲生衆の一人で、「蒲生衆中先祖記」によると元は谷山郷士であったとされています。
弘治3年(1557)に島津氏が蒲生氏を下した後、領内各地から移した衆中の一人と考えられ、朝鮮出兵時には川上忠兄のもとで従軍しました。
慶長5年(1600)の関ケ原合戦の際、盛淳は島津義弘から要請を受け、甚作を含む蒲生衆と帖佐衆70余人を引き連れ、大垣(現在の岐阜県)の義弘陣に馳せ参じました。その後、義弘陣が敵中突破を敢行した時は、牧田の戦いで盛淳とその家来14人、甚作ら蒲生衆18人は島津軍の殿を務め、追っ手を足止めして義弘の退却の時間を稼ぎ全滅しました。
全滅した蒲生衆18人の中で、甚作のみ墓が現存しています。墓碑には「性山道見居士 慶長5庚子九月十五日 関ケ原戦死 福崎甚作」とあり、隣の「玉窓妙金大姉 右女房」と刻まれた墓碑は甚作の妻の墓です。
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