膝跪騂の墓
- 種別
- 記念物(史跡)
- 内容
- 馬の墓
- 員数
- 1
- 寸法
- H
- 製作年
- 江戸時代、宝永4年(1707)
- 所在地
- 姶良市鍋倉宇都 亀泉院墓地内
- 所蔵者
- 鍋倉共有地
- 管理者
- 亀仙院墓地
- 指定年
- 昭和49年5月15日
- 解説
島津義弘の愛馬である膝跪騂(ひざつきくりげ)の墓は、鍋倉宇都の北はずれにある亀仙院墓地にある。その右傍らには由来を刻んだ石碑が建立されている。碑文によれば、この墓は種子島伊時が宝永4年(1707)郡県視察の際にこの地を訪れ、墓の傷みが激しいので、新しく立て直し、膝跪騂の由来を記した撰文を亀仙院に与えている。そして、安永6年(1777)に伊時の撰文を石碑に刻んでいる。膝跪騂の由来については諸説あるが、元亀3年(1572)の木崎原の戦いにおいて、島津義弘が伊藤氏家臣の柚木崎丹後・肥田木玄斎と戦った際に、愛馬が膝を折って主人を助けたため、以後「膝跪騂」と名付けられたという。この馬は牝馬であり、騂は赤茶色、つまり栗毛色のことである。膝跪騂はその後も義弘愛用の名馬として各地の戦に従軍し、長命であったという。昔は春を告げる初午祭の時、帖佐の人々は旧暦正月十九日に馬頭観音の代わりにこの墓へ詣でたという。墓の東側には、馬の飼育係りであった橋口対馬の夫婦墓がある。橋口対馬は義弘の家臣として文禄慶長の役や関ヶ原の戦いに従軍し、義弘のそばを守った。慶安2年(1649)に83歳で死去した。