赤塚源太左衛門墓
- 種別
- 記念物(史跡)
- 内容
- ー
- 員数
- 1
- 寸法
- ー
- 製作年
- 寛永10年(1633)没
- 所在地
- 姶良市蒲生町上久徳2276 永秀庵墓地
- 所蔵者
- 個人
- 管理者
- 姶良市教育委員会
- 指定年
- 令和2年1月20日
- 解説
- 赤塚源太左衛門は、天正11年(1543)に加世田で誕生し、弘治2年(1556)から始まった蒲生合戦に15歳で初めて出陣し、島津貴久に従いました。その後は島津義弘の家臣として肥後・日向・豊後各地の合戦で数多くの武功を立てました。天正年間(1573~1592)には、義弘の御軍談合衆54人の中に加わっています。
文禄4年(1595)に義弘の命で蒲生城守備のため、蒲生城内に移りました。
慶長5年(1600)の関ケ原合戦時は、戦の人質となっていた義弘夫人の宰相公のお供として京都にいたため、夫人を救出し、その後、敵中突破を敢行し薩摩に帰る義弘の船に合流しました。
関ケ原合戦後、徳川方の加藤清正が島津討伐に来るという噂が立ったため、義弘は源太左衛門らに蒲生城の新城(荒平陣)を築かせ、守備隊として城に詰めさせました。その後、源太左衛門は慶長15年(1610)まで新城御番を勤め、最期は寛永10年(1633)に92歳で病死しました。
お墓は、共に関ケ原に出陣した息子の五兵衛尉重明と合祀されています。
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